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重度障害者の地域生活実現のために


by おでんせ★CILもりおか
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今福さん主催の、「ジャパンタクシー」試乗会と第19回全国車いすアクセス・マニア集会in盛岡に参加しました。

乗り込んだら、進行方向と同じ向きに車椅子の方向を変えられれば、走行中に具合が悪くならないと思います。そのためには車内が、大型の車椅子でも一回転できる広さがあれば良いと思います。また、座高が高いと乗れない場合が出てくると思うので、入口の高さを知っておく必要があると思いました。また、「流し」で乗れるくらい台数が普及して欲しいです。


全てのドライバーが乗降スキルを身につけて欲しいです。乗降介助スキルを熟知したドライバーしか対応できないとなると、そのドライバーの出勤した日しか使えず、予約するしかなくなり、「流し」で乗れないことになるのではと思いました。



今回の「ジャパンタクシー」試乗会は大変有意義な試乗会でした。岩手中央タクシーさんにジャパンタクシーがあることを、地元の自分が知らず、東京の今福さんに教えて貰ったのです。 介護タクシーは完全に予約ですので、流しでいつでも乗れるジャパンタクシーが広く多く普及する様に、試乗会ができて、業者さんにも周知出来て良かったです。スロープ設置よりもベルト固定に時間がかかる気がしました。


旅自慢では、文化財を巡りバリアフリー調査している頼尊さん、すごい! 名古屋城にエレベーターを。に繋げられるといいなと思います。

IGRと、青い森鉄道へは、どうにかスロープを積んで18時以降も対応して貰えるようになればいいなと思いました。


盛宮106特急の車椅子席は、大型車椅子だと後ろが狭いのだと知りました。2階に乗車するお客様は前のドアから乗ってもらうか、車椅子の乗客は最後に乗車するとかしないといけないのかと思いました。マニア集会では、色々と学び、気付かせて頂きました。ありがとうございました。

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# by cil_morioka | 2019-09-16 22:35 | バリアフリー | Comments(0)

今お使いのコミュニケーション手段をさらに進化させたいと望んでいる方も、これから始めたいと思っている方も、ぜひ、この機会に、第一線で研究されている講師の方々から直接教えていただけるチャンスですので、ご参加ください。


重度障害児・者のためのコミュニケーション支援セミナー in 盛岡
~日々の生活に活かす障害者のICT

どんなに障害が重く意思の表出が難しい場合でも,身近になったテクノロジーを活用することで,人生を豊かなものに変えることができます。
このセミナーでは,日常生活において,どのようなモノをどのように活用すればよいのかといったポイントを実例を通してお伝えいたします。
第一線を走る専門家・技術者や支援者による講演や当事者による実演を交えた紹介を行います。
参加者の皆さんで、ちょっと先の明るい未来をのぞいてみましょう。

日 時 2019916日(月)敬老の日 13:3016:30
場 所 西部公民館 視聴覚室
    岩手県盛岡市青山町6-1 019-643-2288
内 容 講演・事例紹介・個別相談
定 員 約50
参加費 1,000円 資料代として

主 催 島根大学ヒューマンインターフェース研究室
後 援 岩手県重症心身障害児(者)を守る会
    ぽけっとの会 重い障害の子供たち・人たちの地域生活を豊かにする会
    NPO法人くるりん

【講師紹介】
板倉ミサヲ
78
歳の元女子高生。
平成30年度 岩手県立盛岡となん支援学校を卒業。現在は,老人大学で勉強中。

伊藤史人
島根大学総合理工学研究科 助教
重度障害者のICT を活用したコミュニケーション支援技術を研究。教育福祉分野において実践を重視した研究開発を行っている。日本一使われている視線入力訓練ソフトである「EyeMoT(アイモット)」の開発者。バリアフリーマップアプリ「WheeLog!(ウィーログ)」の技術責任者。2017 年、NHK 日本賞にてクリエイティブフロンティア部門最優秀賞受賞、その他各種受賞多数。
ブログ: https://www/poran.net/

林崎俊男
青森県立浪岡養護学校 教諭
特別支援学校において視線入力を取り入れた指導に積極的に取り組み,自身が講師役を務め,周知活動を行っている。

菅順一
株式会社エンサウンド社 代表取締役
聞こえない人にも評判の振動する抱っこスピーカーを発明。各地で講習会・製作会を開催。
前職はうどん店経営者。うどん教室も開催。

その他調整中
ネット登壇

問い合わせ
e-mail
 : ictmorioka@gmail.com
菊池直実(岩手県立一関清明支援学校 教諭)
# by cil_morioka | 2019-09-02 20:08 | イベント | Comments(0)

8/19(月)盛岡・宮古間を運行する岩手県北バスの都市バス、「2階建てバス 盛宮106特急」に乗車してきました。

チケットは事前にweb予約出来て、予約後、メールが来ました。

番号をコンビニに持って行き、障害者と介助者の料金を支払いました。

当日は、盛岡駅前バスプール東口7番乗り場から13:15に乗車しました。

バス車体の車寄せが縁石に遠くて、渡り板が掛からず、バスを縁石の傍に寄せ直してもらったら、縁石に渡り板が乗りました。渡り板を前進して、左側が車椅子席です。

電動車椅子の固定ベルトは、ベルトのフックをどこに掛けられるか、探しながら掛けました。

しっかり固定してもらったので、車椅子は動きませんでした。

ですが、車椅子席にシートベルトがなかったので、揺れが心配な場合は、自分でベルト等を用意していかないといけないかなと感じました。

車椅子席の前の座席の背中が高いので、前方の景色は見えませんでした。

左右の大きな窓からは景色を眺めることができました。

車内は冷房がガンガンかかっていて、寒かったです。

乗車1時間後にやまびこ産直館でトイレ休憩タイムがありました。

やまびこ産直館でトイレに行く方が多くおられました。

車椅子のお客も申し出れば、ベルトを外して、トイレに行かせてくれるようでした。

盛宮106特急車内の1階トイレに車椅子では入れそうにありませんでした。

介助者と2人の場合も入れないと思います。立つことができて介助が必要ない方は使えると思います。

宮古駅から盛岡へ戻る時は、JR山田線を使いました。

ホームまで2回エスカル(昇降機)に乗りました。

発車時間の10分前には駅に戻り、乗せてもらいました。

事前にJRに乗車時間を伝えて置いたので待っていてくれました。

バスの宮古駅到着が15:20で、宮古駅から盛岡行きのJR発車が16:10のために、食事する時間がありませんでした。

駅の真正面に、2か所、お食事処がありましたが、段差があり、電動車椅子は入れそうにありませんでした。

午後の営業が16:00からとなっていて、準備中の札が出ていました。

駅の近くにキャトルという商業施設があり、そこに入ると、トイレも有ります。

1階と4階に食堂がありましたが、4階の食堂は営業15:30までで、1階は準備中でした。

ですので、1階のスーパーのお惣菜売り場で、お寿司を買って、帰りの山田線の車内で食べて来ました。宮古駅から徒歩7分くらいのところに、魚菜市場があるそうです。時間があれば、まっすぐそっちに行った方が、海の幸をいただけるかと思います。

帰りはJRで帰って来ました。

かつて、夜行・高速バスで旅を楽しんでいた仲間がおりました。

当時は、乗降口が車椅子のまま乗り降りができないため、乗務員に抱えてもらって乗降対応してもらい、トイレ休憩での乗降も対応してもらっていました。

その体験を広く周知してバス事業者の対応がなされるように運動をしておりました。

あれから10年経過していますが、このような素晴らしい車椅子席のある長距離バスが運行されるようになり嬉しく思います。

かつて、夜行・高速バスで旅を楽しんでいた仲間に報告したいと思います。

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# by cil_morioka | 2019-08-21 08:59 | バリアフリー | Comments(0)

「ジャパンタクシー試乗会と第19回全国車いすアクセス・マニア集会in盛岡」
9/15,2019(日)13:00~16:45
会場:アイーナいわて県民情報交流センター602号室(24名)
〒020-0045岩手県盛岡市盛岡駅西通1丁目7番1号
13:00-「ジャパンタクシー」紹介
13:30-「ジャパンタクシー」試乗会〜14:30~休憩
15:00-「第19回全国車いすアクセス・マニア集会in盛岡」
~16:45終了

【開催目的】
今回の集会の意図は、車いすのままで乗れるという「ジャパンタクシー」の試乗と検証を行います。そして、今年の交通バリアフリー法改悪による「自律的な移動」の危機的な状況と「障害者のそれぞれの地域での自立生活の課題と展望」の関係性についての問題意識などを出し合えれば、面白いかなあとの企画です。


【車いすアクセス・マニアとは】
年々、様々な車いす使用者が、多種多様にアクセスの領域を広げています。
でも、アクセス未領域はまだまだ多く存在します。
これまでに先人のアクセス・マニアが苦難の努力の末に得て来たアクセス・マニア技術をフルに発揮し、可能な限り、アクセスする勇者を、車いすアクセス・マニア・エキスパートと言う!
なんだかんだと言っても、車いすで旅行する自慢話しの集会なのです。
車いすのあなた!
あなたもこれから、車いすアクセス・マニア・エキスパートになりましょう!


【プログラム】
9/15(日)午後1時~午後4時45分
前半 午後1時~2時30分
・13:00-13:30
「ジャパンタクシー」紹介
・13:30-14:30
「ジャパンタクシー」試乗
(休憩)後半3時~4時45分
・15:00~16:45
演題発表
「各10分+各質疑10分」×5~6人
今福・頼尊他参加者
発表者以外の人は、質疑参加も可能です。
※「旅の話し」当日の発表者を募集しています。
「各10分+各質疑10分」×5~6人
話しだけでもOKですが、プロジェクターで映写出来る準備をしていますので、写真があればスライドやパワーポイントのデータをUSBメモリーでご持参ください。
問い合わせ・事前申し込みは下記へメールしてください。
(今福)accesstry@gmail.com


# by cil_morioka | 2019-08-07 13:59 | バリアフリー | Comments(0)

街歩き

「おにぎり ころりん」
おにぎりカフェに行ってきました。
事務所から徒歩5分くらいです。
ご飯がなくなり次第終了ということで、急がなきゃって、
お昼前に行きました。
玄関もフラットで、入ってすぐのところにテーブルがあって、
席につくことができました。
プレートセットは、日替わりのお惣菜が3品付くんですよ。
食後のデザートは別腹で、チョコバナナワッフルまで頂いちゃいました。

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# by cil_morioka | 2019-07-04 13:01 | 日々のこと | Comments(0)

61日、兵庫県西宮市で開かれたシンポジウム

「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」。

岩永直子さんによる、

立岩真也さん

渡辺一史さん

講演の詳報。

「支える側」と「支えられる側」は逆転する 「夜更けにバナナ」はわがままか?(前編)

61日、兵庫県西宮市で開かれたシンポジウム「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」に登壇したノンフィクションライターで、『こんな夜更けにバナナかよ』の著者、渡辺一史さんの講演を詳報します。

筋ジストロフィーの主人公が、公的な介護制度が不十分な中で、介助に入ったボランティアの若者たちと交流する姿を描いた作品だが、原作のノンフィクションがあるのをご存じだろうか?

主人公、鹿野靖明さん(1959-2002)のもとにボランティアに入りながら取材して書いたノンフィクションライター、渡辺一史さんも61日、兵庫県西宮市で開かれたシンポジウム「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」で講演した。

支える側、支えられる側の関係がしばしば逆転するのを見てきた渡辺さんは、重度の障害がある人と共に地域で生きていくことについてどう考えているのか。

詳報をお届けする。

【自立生活運動のメッセージを伝えてくれた映画】

映画をご覧になった方はどれぐらいいらっしゃいますか? (会場を見て)半分ぐらいですかね。

大泉さんが役作りにとても熱心に取り組んでくださいました。とにかくすごく忙しいスケジュールの方で、映画は昨年末に公開されたのですが、一昨年から今年にかけて、大泉さん主演の映画が56本ひしめいているという状況なんです。

そんな中、筋ジストロフィーの方の役ですから、丸々太った人がやっても説得力がないですね。毎日走り込んで、撮影の時はほおがこけるぐらいに減量して演じてくださいました。

映画をご覧になった方の中で「泣いた」という方はいますか? あ、それはあんまりいないんだ(笑)。

全国300館でロードショー公開する映画というのは、どうしてもエンターテイメントにしなくてはならいという至上命題がありまして、それで原作にはないラブストーリーを入れたりしています。

大泉さんは鹿野靖明(しかの・やすあき)さんという実在の方、これからお話しする方を演じてくださったんですが、高畑充希さん(役名・美咲)と三浦春馬さん(役名・田中)はそれを支える介助ボランティアの役を演じました。原作には出てきませんから、架空のボランティアの役なんです。

原作に出てくる何人かのボランティアを凝縮させたキャラクターではあるんですが。三浦さんと高畑さんが付き合っている設定の中に、第三の男として鹿野靖明という恋多き男が首を突っ込んでくる。その三角関係を描いたドラマになっています。

でも、そうしたエンターテイメントを軸にしながらも、観る人にちょっと考えさせられるという映画になっていると思います。

少し裏話をしますと、シナリオの初稿から最終稿に至るまで、じつはもめにもめました(笑)。鹿野さんのお母さんが今もお元気でして、それと元ボランティアの人たち、そして私という、いわゆる原作者サイドと、映画制作者サイドの間で、一時は決裂するかもしれないという局面もありました。

でも、原作や、自立生活をされている皆さん、障害者運動のメッセージの根幹のようなものはどうしても伝えてほしいと、何度かやりとりをする中で最終的にこういう形になりました。

【筋ジスの人としては早い1983年からの自立生活】

1998年に、約40人のボランティアを介助に入れて、ケア付き住宅で生活していた鹿野さんを紹介するNHKのドキュメンタリーの冒頭部分を流す)

これが実在の鹿野さんです。大泉さんに似ていますか?(笑)

正直、姿形は似ても似つかないんですが、不思議と、見ているうちに鹿野さんをよく知っている私たちでさえ、瓜二つに見える瞬間がありました。

というか、似てる似てないという以上に、こういう障害者が実在するんじゃないかと思えるようなリアリティのある演技を大泉さんがしてくださった。俳優さんの力って本当にすごいなと思わせるものがありました。

では、実際に鹿野さんはどういう風に生活していたのかということを話したいと思います。

私が取材を始めたのは2000年で、先ほど流したドキュメンタリーの映像の2年後です。鹿野さんは、35歳で人工呼吸器をつけて、私が取材を始めたのは40歳の時でした。

鹿野さんが自立生活を始めたのは割と早くて、24歳の時です。1983年のことですから、筋ジストロフィーの方としては全国的にみても非常に早い時期だったと思います。

【障害者運動と出会い 地域で暮らす思いを育てる】

先ほど立岩真也さんのお話の中で、筋ジストロフィー病棟にいる方と障害者の自立生活運動が並行してあったのだけど、残念ながら、その接点があまりなかったという話をされていましたね。

鹿野さんの場合は、北海道に「国立療養所八雲病院(現・国立病院機構八雲病院)」という筋ジス病棟があり、鹿野さんも幼少期からそこに入院していました。ところが当時、八雲病院に併設されている養護学校は中等部までしかなくて、高等部に進学するために八雲病院を出て、札幌にある養護学校の高等部へ進学することになります。

1970年代のことですが、八雲から札幌に出てくることで、鹿野さんは札幌いちご会という有名な障害者団体と出会うことになったのです。

1970年代といえば、青い芝の会の運動が本格化し、府中療育センターでの闘争などが起こった、いわゆる日本の障害者運動がスタート地点といってもいい時代ですが、札幌いちご会もまた1977年に結成された団体で、鹿野さんもそのメンバーに合流していきます。

鹿野さんは、そういう形で障害者運動と触れ合う中で、「どんなに障害が重くても、地域で生活したい」という思いを20代から自分の心の中で育てていく。

20028月に42歳でお亡くなりになったのですが、それまでずっとそういう思いを貫き通した方でしたね。

【ボランティアに頼らなければ生活ができなかった時代】

ところで、映画や原作の中で、「ボランティア」という言葉が前面に出てくるのはなぜだと思いますか?

障害者に公的な介助を保障する制度は、障害当事者たちが運動と交渉を重ね、徐々に勝ち取ってきた制度ですが、鹿野さんの生きていた時代は、今と比べてもその充実度が半分にも満たないという状況でした。

例えば私が取材を始めた2000年当時、自治体によって差がありますけれども、札幌市は、124時間のうち、9時間分はだいたい公的介護保障制度でカバーできるという状況でした。

当時は「措置制度」と言われていた時代ですが、それと生活保護の他人介護加算を足しても、24時間あたり13時間分は公費でヘルパーさんを雇えるだけのお金はもらえる。ところが、残りの11時間分は無償のボランティアに頼らなければならない。

そこで、ボランティアに対しては、もらった公的介護料を薄めて配ったり、交通費や食事代ぐらいは支給するという形で、生活していたということです。

24時間、三交代制なわけですが、毎日、片時の空白もつくることなく、ボランティアのローテーションを組むのは本当に大変なことですよね。

札幌ですので、北海道大があったり、いくつか私立大学や看護学校、福祉系の学校もありますが、そういうところに呼びかけて学生ボランティアを集めていました。

【たんの吸引 「ボランティアは家族だ」と言い張る】

もう一つ、重要なことは、たんの吸引の問題ですね。

気管切開して人工呼吸器をつけると、どうしてもたんが気管や呼吸器の管の中にたまります。そのたまったたんを吸引しなければならないという困難がありますが、たんの吸引は当時、医療行為であり、医療職しかやってはいけないと言われていた時代でした。

医療者や家族しかたん吸引が認められなかった時代に、「ボランティアは家族だ」と言って、ボランティアにやらせた。

要するに医師や看護師しかできないんです。でも、看護師を24時間雇うなんて誰にもできませんよね。そんな中、例外的に家族、あるいは、手が動くのであれば本人だけには吸引が黙認されていました。

でも鹿野さんのように手が動かない在宅の患者さんたちは、ヘルパーさんが来てくれるにも関わらず介護職が吸引してはならないということで、家族が寝ずにやるしかないという大変な困難を背負っていました。

そういう問題意識から、日本ALS協会が中心となって、たんの吸引問題をなんとかしてくれと訴えて、2012年から、介護職にも研修を受ければ吸引してもいいですよという制度が整うことになったんです。

じゃあ鹿野さんはどうしていたかというと、家族は黙認されているのを拡大解釈して、「ボランティアは僕の家族だから、家族であるボランティアが問題を起こしたとしても、責任は僕が取りますから」と言って、ボランティアにたんの吸引をしてもらっていたのです。

こういうのを法律的には、「実質的違法性阻却」といいます。厳密には違法なんだすけれど、特別の事情を考慮して違法性を問わないということです。

介護職どころか介護さえできない素人のボランティアに、鹿野さんが自分の体を提供して、たんの吸引を教えていました。新人ボランティアの研修というのがありまして、私も取材の一環で研修を受けました。

【鹿野さんが先生 何もできない人が一番できる人に】

私は取材以前、23歳の時から大学を中退してフリーライターとなりました。鹿野さんのところに初めて取材に行ったのは32歳のときです。

すでにフリーライターとしては10年ぐらいのキャリアがあったんですが、それまで福祉や介護、ボランティアの取材はしたことがなかったんですね。

鹿野さんとボランティアの交流が北海道新聞の大きな特集記事になったことがありまして、知人の北海道新聞社の出版部門の編集者から、そのテーマを一冊の本にしてみないかとたまたま声をかけられました。

全くこの業界を知らないライターとして鹿野さんと「初めまして」と出会って、そこから取材を始めたわけです。

主にボランティアの7割ぐらいが学生ですね。残りの3割ぐらいには主婦や社会人の方などいろんな方がいらっしゃいました。

主なボランティアは学生ですから、だいたい3月になると、卒業就職でたくさん抜けますよね。4月になると新人ボランティアが入ってきますから、何もできないボランティアに鹿野さんが研修をするわけです。

これが研修の時の写真です。

奥にいるのは私ですけれども、看護学校生も医大生もいますし、福祉系の大学の学生たちもいます。マニュアル本が代々受け継がれていまして、鹿野さんが先生なんですね。

私も一緒に研修していますから、「はい。渡辺さん3ページを読んで」などと言われるわけです。

「人工呼吸器のアラームには上限アラームと下限アラームがあって......」とか朗読させられると、「はいここにアンダーラインを引いて」とか鹿野さんが言うわけですね。そういう感じで完全に教師です。

社会的弱者というか、ボランティアに助けられているという側面というよりは、どちらかというと鹿野さんが、みんなに講義をしてあげているという感じです。

帰るときも当然、鹿野さんがボランティアに「今日は忙しいのにきてくれてありがとう」と言うのがまあ普通ですよね。

けれど、実際は全く逆で、帰る時に若いボランティアの人たちが、「鹿野さん、今日はありがとうございました」と頭を下げて帰っていきます。鹿野さんは「まあ、どういたしまして」という感じです。

「いや渡辺さん、研修ってほんと疲れるわ」みたいにぼやいている鹿野さんを見て、私は非常に頭がネジくれるような気がした最初の場面でした。

つまり、「できない」ことを「できる」に転換していく厚かましさ、バイタリティというのでしょうか。

鹿野さんは、「介助を受ける」ということと、「自分の体を教材にして、素人のボランティアに介助を教える教師」という役割を両立していました。

鹿野さんは手も足も動きませんから、ありとあらゆることができない、寝返りも打てないし、排泄しても自分のお尻を自分で拭けません。何もできない人なんです。

ところが、その何もできない鹿野さんが、なぜか人一倍「できる人」に見えるというように、人間関係を逆転させてしまう。

【制限だらけの鹿野さんが若者を解放していく】

そのあたりは映画でも非常に印象的に描かれています。

映画では、三浦春馬さんのお父さん役は佐藤浩市さんで、大病院の院長です。その跡取り息子が三浦さんであり、北海道大学の医学部に通う医学生という、言って見ればめちゃくちゃ優秀で恵まれた境遇なんですね。

ところが三浦さんは、なぜかうじうじした性格で、自分は医者になれるんだろうか、とか、そもそも自分は本当に医者になりたいんだろうか、と悩む。男子の学生にありがちなタイプでしょう? 原作に出てくる何人かのボランティアもそうだったんですが、自分で自分の能力の限界を定めてしまう。

それに比べると鹿野さんは身体的には何もできないし、制限だらけの人なのに、人一倍自由に生きている。そういう姿に影響されて、高畑さんや三浦さんの心が解放されていくところをうまく描いていたと思うんです。

自由に自分の生きたい人生を生きる鹿野さんの姿にボランティアの方も励まされていた

さて、今までの話だけだと、鹿野さんという非常に困難を背負った、いわゆる聖人君子でカリスマ障害者である鹿野さんと、鹿野さんの元に集う、善意に溢れた献身的なボランティアたちの物語ーー。

そんなふうにイメージするのが一般的だと思うのですが、それとは全く違っています。

とにかく「あれしろ、これしろ」と容赦ない鹿野さんにボランティアたちが日々、振り回されます。あるいは、鹿野さんは食べ物の好き嫌いが多いし、人の噂話は大好きだし、もちろんエッチなところもたくさんあったり、どこが聖人君子なんだ?という感じなんですね。そういう人でした。

ボランティアも本当に普通の人たち。よく遅刻してくる人もいたし、鹿野さんの大好物を冷蔵庫から勝手に出して食べてしまうボランティアもいたり(笑)。また、介助を何度教えても覚えられない人がいて、とうとう鹿野さんがキレて、「お前もう来なくていい!」と言ったりします。

そして、みんな人生それぞれに悩みを持っていますね。そういう普通の学生であるボランティアと、本当に一見、「わがまま」で、自己主張の強い鹿野さんとの対決みたいなものがいろんな場面であったんですよ。

「あなたのために」をまとう力に抵抗して 「夜更けにバナナ」はわがままか?(後編)

『こんな夜更けにバナナかよ』の著者、渡辺一史さんの講演詳報の後編は、支援する側と支援される側が豊かに逆転していた鹿野靖明さんとボランティアたちの関係から、渡辺さんが受け取ったものをお伝えします。

『こんな夜更けにバナナかよ』で、自立生活をした筋ジストロフィーの鹿野靖明さんとボランティアの交流を描いたノンフィクションライター、渡辺一史さんの講演詳報。

後半は、ボランティアに容赦なく、自身の要求を突きつけてきた鹿野さんから、ボランティアや渡辺さんが学んだことを伝えます。

【外出が大好き 講演をしながらボランティアを集める】

鹿野さんは18歳のときに足の筋力低下から車いす生活になります。そして、35歳のときには呼吸筋の低下により、人工呼吸器をつけました。

私が取材を始めた頃には、すでに首や背中の筋力も低下して寝たきりの生活でしたが、それでも外出が大好きな人で、リクライニング型の車いすに乗って、大名行列のようにボランティアと出かけていました。

前にもいいましたが、124時間を3交代制でローテーションを組み、来る日も来る日も有償・無償のボランティアで埋めるというのは本当に大変なことです。

ですから、チラシをまいたり、大学や専門学校などの授業のひとコマを借りたりして、ボランティアがいなくては生きていけない現状を訴えながら、大変な思いをしてボランティアを集めます。

それが鹿野にとっての「仕事」でもありました。

【「たばこ介助」 やるべきかやらないべきか?】

ところで、自己主張の強い鹿野さんとボランティアの間には、本当にさまざまな対立、衝突、葛藤がありました。

一例を挙げると、「たばこ介助」という問題があります。

鹿野さんは、人工呼吸器をつけていたにも関わらず、たばこが大好きで、たばこ介助というのをボランティアにやらせていました。

【たばこの介助でボランティアの一人と激しく対立した】

会場にいる当事者の方で、たばこを吸うという人はいらっしゃいますか?(何人か手が上がる)

その場合、どうでしょう? 介助者の人たちは何も言いませんか?

だとしたら、とても優しい介助者かもしれないですね。

もしあなたが介助者だったとして、障害当事者の方にたばこを吸いたいと言われたら、あなたならどうしますか?と聞くと、さきほどの方のように吸いたいと言われて「はいどうぞ」と吸わせてくれる介助者もいれば、そうでない人もいるのではないかと思います。

自分なら違うという介助者の方いますか?(会場から「私はたばこは嫌です」という声が上がる)。

あ、なるほど。たばこの煙がイヤだという方も当然いらっしゃいますよね。あるいは、「鹿野さん、たばこは体に悪いからやめたほうがいいですよ」と考える人もいるのではないかと思います。

鹿野さんの時代は、まだ「受動喫煙」とか「嫌煙権」というのが今ほど口にされる時代ではなかったのですが、当事者の方が吸いたいといえば、黙って吸わせてあげるという介助者もいれば、「たばこは体に悪いから、やめたほうがいいですよ」といって止めようとする介助者もいます。

主にこの二つが代表的な考え方だと思います。

今の時代だと、「介助者の体に悪いから吸わないでくれ」と言われることが圧倒的に多いかもしれません。もしそれを言われたら、健常者だろうが障害者だろうが、すみませんと言ってやめざるをえないのですが(笑)。

「たばこはいやだ」と抵抗したボランティア

それはさておき、原作の中では、山内太郎くんという、北大生のボランティアが、「人工呼吸器をつけている人がタバコを吸うなんて、自殺行為に手を貸すようなもので、自分はそんなことをするためにボランティアを始めたんじゃない」と、鹿野さんに抵抗したエピソードを書きました。

鹿野さんが「太郎、たばこ吸いたい」と言ったときに、彼は「いやだ」と言い張ったんですね。

鹿野さんは鹿野さんで、「うるせえ太郎。俺は毎日ストレスが多いんだから、たばこくらい吸わせろよ」と言い返した。

太郎くんはそれでも、「俺はそういうのいやだから」と言い張りました。

【対立し、意見を戦わせたことが互いの理解につながっていった】

これは、結構度胸いりますよね。普通なら、ハイハイと言って、嫌だな、なんかおかしいなと思っても、黙ってタバコを吸わせてしまうことが多いと思うんです。でも、とにかく太郎くんは嫌だと言い張った。

鹿野さんは、「もうわかったよ、太郎には負けたよ」と言うと、太郎くんが帰った後に、次にきたボランティアに「たばこ吸いたい」と言って、吸わせてもらったわけですが。

太郎くんに関していえば、そこで鹿野さんと非常に対立、衝突した。太郎くんは「タバコを吸うのはおかしいんじゃないか」と思って、それを正直に鹿野さんにぶつけたわけですが、この体験というのがその後、ボランティアをずっと続けていく上ですごく大切な体験だったと太郎くんは語っていました。

もし心に思ったことをいわずに、鹿野さんの言ったことに、なんでもハイハイと従っていたとしたら、自分はボランティアは長続きしなかったのではないかと。

太郎くんはその後、大学院に行っても6年間、鹿野さんが亡くなるまで、最終的には中心的なボランティアとして活躍していました。

対立し、語り合って、わかり合っていった

一方の鹿野さんは、太郎くんにたばこ介助を断られてどう思ったのでしょう。

「太郎はオレに反抗的なボランティアだから、もう来なくていい」と見限ったかというと、まったく逆でして、「おっ、太郎は、なかなか骨のあるボランティアだな」と思ったというのです。

そういうのが人間関係の不思議さですよね。ハイハイとなんでもいうことを聞いてくれるけれども、内心、こいつ何考えているんだろうと思うような介助者よりは、はっきりと思ったことを口に出してくれる介助者の方がいざとなった時に信頼できるということはありますよね。

それ以来、鹿野さんは太郎くんと、ことあるごとに「なあ太郎。どうして俺がたばこ吸いたいって言うんだと思う?」と話し合ったりします。

そうすると太郎くんも考えるわけです。当時は、今と比較しても在宅福祉の制度は全然未整備だったにも関わらず、鹿野さんは病院を飛び出して自立生活を始めました。それははっきり言って、たばこの害どころではない。命がけの選択ですよね。

そんな鹿野さんに向かって、「たばこは体に悪いですよ」と言うならば、自立生活の方がよほど体に悪い。

つまり、いろいろ話し合ううちに、どうして鹿野さんがそういう生活をしているのか、どうしてたばこを吸いたいということにそこまでこだわるのかという背景が見えてきますよね。

そして、「鹿野さんは命がけで自立生活をしているんだな」と納得した後では、太郎くんも「たばこ吸いたい」と言われたら、「わかったよ」と吸わせられるようになった。

そのことは、たばこを吸わせるのが正しいかどうか、という以上に大切なことだと思います。

こうしたプロセスのことを、「コンフリクト」と呼んだりします。つまり、考え方の対立が起きたとしても、お互いが率直に意見を言い合うことで、それを乗り越えていく。

立岩真也さんの書かれた本で、『生の技法』(共著)という、この分野の名著がありますが、この本の中にもコンフリクト(対立)の重要性に触れた章があります。

つまり、ぶつかり合うことでお互いの思っていることを率直に話し合えるような関係。それがまさに「対等」ということの意味なんだよということです。

【思いやりをまとうパターナリズムにどう抗するか】

たばこ介助について、もう少しこだわってお話ししたいと思います。

ここには比較的重要な問題が潜んでいるからです。

たとえば、「たばこは身体に悪いからやめたほうがいいですよ」という考え方は、一見、介助者の優しさ、思いやりのように思えますが、果たしてそうなのでしょうか。

こうした考え方のことを、じつは「パターナリズム(父権主義、温情主義)」と言います。要するに、強い立場にある人が弱い立場にある人に代わって意思決定を行ってしまう支配パターンのことです。

まさに鹿野さんがイヤで飛び出した病院や障害者施設では、こうした考え方に基づいて患者や入所者を管理しています。

そこを飛び出して、自分の人生を自分の思うように生きたいんだという強い意志で自立生活を始めた障害者にとっては、パターナリズムにどう抵抗し、どう乗り越えていくかが、地域で生活していく上での生命線でもあるんです。

それに対して、たばこを吸いたいと言う障害者に、「あたなの体に悪いからやめておいた方がいいですよ」と言う。

あるいは、「こんなテレビを見るよりも、もっとこういう番組を見た方がいいですよ」とか、「あるいはゲームなんかしてないでもっと本を読みましょう?」などと言う。こういうのもパターナリズムの一例です。

つまり、「あなたのために」という形を装ってしのび寄ってくる主体性への侵犯に対し、どう抵抗して自分の人生を自分で生きていくかが大切で、だからこそ、自立生活をする障害者は、一見わがままな人に見えてしまうところがあるのです。

パターナリズムの究極の形は「殺してあげないとかわいそう」

パターナリズムは、見かけ上は必ず「あなたのために」という形をまといながら忍び寄ってきます。

パターナリズムの究極の形はいったいなんでしょう。

これは私が勝手にそうだなと思っているんですが、最終的には「殺してあげないとかわいそう」に行き着くのではないでしょうか。

これは1970年代、まさに「青い芝の会」の人たちが声を上げた出発点であり、日本の障害者運動はここから始まっているわけでしょう?

当時は、在宅福祉の制度なんて皆無の時代で、施設に入れようにも、特別養護老人ホームの待機者が何十万人といるみたいに、施設そのものが未整備でしたから、その頃、障害児を抱えていたお母さんは本当に大変な思いをしていました。

世間の目は今よりずっと冷たいし、差別も露骨だった時代ですから、「重い障害があるわが子がかわいそう。殺してやれるのは自分だけだ」などという思いから、親が障害児を殺してしまう事件が1970年代に多発しました。

それに対して声をあげたのが青い芝の会という脳性まひの人たちのグループで、「冗談じゃない、俺たちは生きたいんだ。かわいそうだからと言って殺さないでくれ」と声をあげた。ここが日本の自立生活運動、障害者運動のスタート地点でもあったわけですね。

「殺してあげないとかわいそう」というのは、2016年に起こった衝撃的な事件とも無縁ではないと思います。

相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、深夜にナイフを持った元職員が19名の障害者を殺害、27名に重軽傷を負わせたという事件です。

私は今、植松聖被告と手紙のやり取りをして、その後、面会を重ねるようになりました。今、彼は横浜拘置支所というところにいますが、彼の考え方の中にも、「殺してやらないとかわいそう」という思いが混じっていたと思います。今、実際に彼と会っていますので、あまり軽々しい結論は出したくないのですが......

【夜更けにバナナはわがままか?】

たばこの話から脇にそれましたが、パターナリズムというものにどう抗していくかというのが、自立生活を考えていく上ですごく大切です。だからこそ、自立生活をしている障害者の人たちは、鹿野さんもそうですが、わがままに見えてしまうということですね。

でもそれは果たしてわがままなのかということを介助者も考える必要があるわけです。

『こんな夜更けにバナナかよ』というタイトルは、夜中に起こされてバナナ食べたいと言われた学生ボランティアの介助者が、鹿野さんが夜ちゃんと寝てくれれば自分も仮眠を取れるのに、夜中に叩き起こされて、「腹減ったからバナナを食べたい」と言われたエピソードからつけました。

介助者は、国吉智宏さんというボランティアなんですが、ふてくされた感じで口にバナナを押し込んで食べさせて、さあもういいだろうと思ったら背後から、「くにちゃんバナナもう一本!」と言われたんですね。

彼は、キレかけながらも、「ここまで自分の思いを主張してくる鹿野さんってすごいな」と思って、急に怒りがクールダウンしてしまった。そういうエピソードを語ってくれました。

私も研修に参加して一通りの介助をできるようになりまして、たんの吸引も教わって介助者として一人前になった。

そうなると、度々鹿野さんから電話が入って、「来週水曜日どうしても人が埋まらないんで、渡辺さん介助入って」って言われるんです。どんどん私も、取材しているのか鹿野さんの介助をしているのかわからない状態に巻き込まれていきました。

私はよく泊まり介助に入りましたが、私の場合はバナナ食べたいじゃなくて「そうめん食べたい」と言われましたね。

【自分でできないことをやってもらうのはわがままではない】

そもそも、鹿野さんはなぜ夜寝つけないのかというと、筋ジスの人は寝返りが打てないでしょう? そのため、眠っていて体が痛くなると、介助者を起こして体位交換、体位変換してもらう。

つまり、寝返りが打てない人にとっては、眠ることは体の痛みとの戦いでもあるということです。

それと鹿野さんは、眠ると二度と目が覚めないんじゃないかという恐怖心みたいなもの、不安神経症を抱えている人でしたから、毎日いろんな薬を飲んでいました。

寝るときにも非常に強い睡眠導入剤を飲んで寝るんですが、少しすると目を覚ましてお腹すいたと言っては、僕の場合はそうめん食べたいというわけですね。

「ちょっと渡辺さんそうめん茹でて」と言われて、「はいわかったよ」と言って、そうめんを茹でて、ネギとかは誤嚥しやすいですから何も入れずに、茹でたそうめんを冷やして、めんつゆを水で割って冷やしそうめんを作る。

持っていって食べさせると、「ちょっとめんつゆ薄いわ」と言ってやり直しをさせる。それでもう一度めんつゆを加えて持っていくと、「ちょっとしょっぱいわ」と言われて、またやり直しさせられる。それを34回やらされる。

最後鹿野さんが何を言ったかというと、「渡辺さん、まだまだ俺の味わかっとらんなぁ」と言われるんですよ。「ふざけんな。このオヤジ!」と思うんですけれども(笑)。

そういう体験があって、やっぱりみんなこういう経験をしているんだなと思ったと同時に、普段は、さも優しくて包容力のある人間であるかのようなふりをしている私が、これぐらいで腹を立てていることに気づく。

あたかも自分が全否定されたかのような、介助者として君は向いとらんと言われたような、結構ショックですよね。

優しいふりしてやってあげたら、ダメだと言われてやり直しさせられると結構ショックなんですが、もし鹿野さんが手が動いて自分で味を調整できれば、自分でやりますよね。

それが全くできないから人に頼まざるを得ない。あるいは、自分でできる人であれば、「今日はたまたま渡辺が作ってくれたから、まあ我慢するか」ということがあるかもしれませんが、鹿野さんは永遠にそれができないわけです。

だから、自分の好みの味になるまで何度でもやり直ししてもらうというのは、これは考えてみたら、全然わがままじゃないなって気づきます。

たばこの問題もそうですが、「果たしてこれはわがままなんだろうか」という問いを、自分自身に突きつけることのできるボランティアは長く続くし、何より自分自身が大きく成長していきます。

【アダルトビデオ介助も 聖人君子ではない】

この写真も、どちらが社会的弱者なのかという感じですね。

鹿野さんのキャラクターは、ある意味、天然キャラというか、何か含蓄のあることをいってみんなをうならせるような人格者タイプの人では全然ありませんでした。

その意味では大泉さんがとてもうまく演じてくれたのですが、鹿野さんが何かカッコいいことを言うと、ああまたカッコつけてるなというのが見え見え。そういう鹿野さんにツッコミを入れたり、みんな鹿野さんをいじって遊ぶのが大好きで、このバカ殿をどうにか支えなければと思わせるような感じの人でした。

ビデオ介助というのもありました。アダルトビデオを見せる介助です。

これは映画でもすごくいいシーンとして描かれていました。

当時はDVDやインターネットがさほど普及していない時代でしたが、VHSのビデオコーナーが部屋の隅にあるのをボランティアが長い人たちはみんな知っています。

映画では、高畑充希さん(役名・美咲)が、鹿野さんに「英語の辞書をとって」と言われて、本棚から辞書を出したら、その奥にアダルトビデオがあって、「鹿野さん、これみて何するの?」と聞くシーンがあります。

本当に自立生活ってこういうことなんだなと思います。私も取材する前は、障害者に性欲はあるんだろうかとか、性欲の処理はどうしているんだろうかとか、こういうことを考えちゃっていいのだろうかというためらいもあったのですが、当然あります。

介助者たちがどう応えていたのかというと、ビデオをセットして、鹿野さんのズボンとパンツを脱がせ、ティッシュを何枚か握らせた手を股間に持っていく。そして、鹿野さんからお呼びがかかるまで、居間に待機するという形を取っていました。

さっきの山内太郎くんなんかは、たばこ介助には結構抵抗したんですが、「太郎、今日は人妻もので」と言われると、「わかったよ」と言って素直にレンタルビデオ屋さんに走る。そういう信頼関係がありました。

こうした介助は、当然のことながら、頼める介助者と頼めない介助者がいます。鹿野さんも、このボランティアはどこまでOKかを常に考えてものを頼んでいました。また、女性も多いですから、下手なことを言ったらセクハラになりますし、変な噂が広まったらボランティアが集まらなくなって鹿野さんにとっては死活問題です。

ですから、鹿野さんは日々、頭をフル回転させてボランティアのローテーションを組んでいましたね。

【支える人と支えられる人は逆転する】

最後に、鹿野さんとボランティアの交流を通して、私が何を感じたのか、映画や原作を通して何を描きたかったのかを簡単にまとめますと──

「支える人」と「支えられる人」というと、固定化したイメージで捉えられがちです。要するに、鹿野さんのように障害がある人はつねに「支えられる人」で、ボランティアや介助者が「支える人」だと一般には思われています。

ところが、鹿野さんとボランティアの関係を見ていると、それはしばしば逆転していて、どちらかというと鹿野さんの方が若いボランティアたちを支えているんじゃないかと思える場面がたくさんありました。

【鹿野さんの方がボランティアを支えているような場面もあった】

例えば、映画で三浦春馬さん(役名・田中)のように、「自分は医者に向いているんだろうか。そもそも本当に医者になりたいんだろうか」というような、「人生どう生きればいいのか」と迷っているような若者にとって、鹿野さんから支えられる場面はたくさんあった。

また、鹿野さんみたいな人と出会い、鹿野さんのような人を助けることによってまず、承認欲求というか、自分は人の役に立てるんだという思いをまずいただくこともありますね。

そして、自分よりも制限が多く、障害の重い鹿野さんが自分よりずっと自由に生きていると教わったりすることもあります。これはボランティアだろうが有償介助者であろうが変わらないと思うんですが、そういう意味で支える人と支えられる人が逆転していますよね。

もう一つは主婦のボランティアがそうでしたが、だいたい子育てがひと段落すると、夫との関係が冷え切っていて、「夫にとって自分ってなんだろう、子どもにとって自分ってなんだろう」、そういう風に人生を考えている主婦の人たちの相談相手だったりもする。

鹿野さんのところにきて、夜な夜な、「鹿野さん聞いてよ。夕べも旦那にこんなことひどいこと言われて」みたいに相談すると、鹿野さんが「もっと前向きに生きましょうよ」と言うんですね。障害の重い、ベッドで寝たきりの鹿野さんが。

先ほど、承認欲求、と言いましたが、誰しも人は、他の誰かを支えているという思いなしに生きていけないところがありますよね。

介護や介助に関わらず、それはどんな仕事でもそうだと思うんです。私も文章を書いたり、こうして皆さんの前でお話しして、何かしら皆さんの役にたっているという承認欲求を皆さんから満たして頂くことによって生きている。

支える人、支えられる人を分けて、これからの時代は、支えられる人ばかりがどんどん増えていく社会だという言い方がよくされますが、逆に「支える人」ばっかりがいても社会は回っていきません。

お医者さんだって、患者さんがいて初めてお医者さんであることができる。要するに、患者さんが自分をお医者さんにしてくれるわけですよね。

社会や経済というのは、支える人と支えられる人、求める人と求められる人の関係の網の目によってできています。そういう意味で、支える人と支えられる人は常に対等なんだということをボランティアと鹿野さんの関係を通して学びました。

そして、介護の世界は、人間関係や社会の基本原理が、いわば凝縮した世界といってもいいのではないかと私は思っているのです。



# by cil_morioka | 2019-06-15 10:14 | 運動 | Comments(0)

61日、兵庫県西宮市で開かれたシンポジウム

「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」

岩永直子さんによる、

立岩真也さん渡辺一史さん講演の詳報。

全身の筋肉が衰え、症状の進行と共に人工呼吸器や経管栄養などを使って、生活の全ての介助を必要とする難病、筋ジストロフィー。

その診断を受けた人が生活する国立の「筋ジストロフィー病棟」というものがあることをご存じだろうか?

1960年頃から全国にできたこの病棟に、1000人単位の筋ジストロフィーの人が入所し、一生を過ごしている。

一方で、「自分の好きな場所で暮らしたい」と地域での生活を求め、実行する人も近年、増えている。

そんな自立生活を支援してきたNPO法人「メインストリーム協会」の主催で61日、兵庫県西宮市で「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」と題するシンポジウムが開かれた。

登壇したのは、障害者が置かれた社会環境について調べてきた社会学者、立岩真也さんと、筋ジストロフィーの主人公とボランティアの関係を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』映画化されて話題のノンフィクション作家、渡辺一史さん

二人の講演の詳報をお伝えする。

まずは立岩さんから。

【記録して忘れないこと 何があったか覚えておくこと】

旧国立療養所の「筋ジストロフィー病棟」で暮らしている、筋ジストロフィーの人たちと、私たちはこれからどういう風に生きていけばいいのでしょう。

今日、明日のことを考えるために、どうしても昔に遡って歴史を知らなければいけないかと、そうでもないかもしれませんね。やらなくてはいけないことは決まっているんですから。でも、聞いて損はしない。

特に、社会福祉や医療、看護など、人を支援する仕事に携わっている人が何も知らなかったり、学校で嘘を教わったりしていることが結構あります。

詳しいことは私たちのWebページに載っています。20181224日に行った「第33回国際障害者年連続シンポジウム・筋ジス病棟と地域生活の今とこれから」の集会も文字化しています。

こういう記録を残すことはすごく地味なのですが、すごく大事なことです。

去年のことでも先月のことでも、僕自身そうですが、喋ったことを忘れる。何も覚えていない。できるだけ文字にして後で見てもらえるように、地味に記録して行きたいと思っています。

そうでないと、筋ジストロフィー病棟から出て、地域で暮らすために京都や兵庫の人が支援してきた古込和宏さんという人がついこの間、亡くなったのですが、亡くなってしまったら喋れないわけです。

生前の古込和宏さん。口に加えた棒でパソコンを操る。8歳で入所して以来、37年間病院で暮らしてきた。多くの自立支援団体や弁護団の協力を経て、地域での生活を始めて間もない20194月に亡くなった

けれども、彼の場合は亡くなる12年の間に書かれたものがいくつもあって、それはかろうじて読めます。こういう場でダイレクトに顔を見て話すことと、同時にそれを画像や文字で残すことは大切だと思っていて続けています。

【筋ジス病棟の前身、国立療養所とは何か?】

国立療養所という言葉自体あまり聞いたことがない方が普通なはずです。

今は法律が変わって、名前も変わっているんですけれども、元々は「国立療養所」というものがありました。

1945年に日本は戦争に負けましたが、その時にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の司令もあって、全国にできていきます。

そこに入所したのは、主に結核の療養者です。特に戦争の直後、栄養状態も悪く、衛生状態も悪い時に結核がすごく流行る。そういう人たちを収容する場所として、全国各地に国立療養所を作ったわけです。

実は、それ以外に、ハンセン病の国立療養所というのもできました。ずっとハンセン病の人たちが住んだまま、70年や80年経っています。

そこは入れ替えがありません。ハンセン病の人はずっとそこに住み続け、今生きている人は80代や90代になっています。そういうハンセン病の国立療養所もあります。

そこも今、高齢化していて、入所者がいなくなりつつある状況です。例えば、このあたりだと瀬戸内海の長島愛生園があります。実はそこの消えつつある資料をどうやって残そうかという課題があって、来年になるかもしれませんが、立命館大学で展示を行うことにしています。

【入所者がいなくなった結核療養所の生き残り策】

結核の療養所には、多くの結核の人たちが何万人という単位で入っていました。ただそれが、1940年代、50年代を超えていくと、だんだんと治るようになっていく。特効薬ができたこともありますが、栄養状態も良くなって出られるようになっていく。

そういうことが1950年代からぽつぽつ出てきます。そこから出ていくようになると、病院はいらなくなるわけだから、じゃあ閉めようかというとそうはならなかったんですね。

これはよくあることで、世の中のものは、それを守ろうとする人がいる限り、そしてその人たちの力が一定程度強いものである限り、姿形を変えて残ろうとする。

例えば、精神科病院も、戦後、国立というより、私立の病院が山ほどできたわけです。そういうものも上手くやれば、だんだん減らすことができるのですが、一定の定員を抱えてしまったその病院は、減らすと働く人が困る、経営者が困るということがあり、維持するという力が働くわけです。

それと同じようなことが国立療養所でも起こります。

1940年代、1950年代にかけて結核患者がだんだん少なくなった。じゃあどうしようかとなるわけです。

そこに登場するのが、実は一つは筋ジストロフィーの人たちなんです。もう一つは、今日はお話ししませんが、重症心身障害児と呼ばれる知的にも身体的にも障害の重い人たちです。そういう二種類の人たちを収容することによって、国立療養所というのは生き残りを図っていきます。

入所の始まりは仙台 筋ジストロフィーの三兄弟

始まりは、1960年。ちなみに僕も60年生まれです。今から59年前に、仙台市の国立病院機構仙台西多賀病院に、筋ジストロフィーの山田兄弟が入ったのが最初だと言われています。

山田3兄弟は、元々は九州から出てきたようなんですが、3人とも筋ジストロフィーの中でも重い種類のデュシェンヌ型という病気でした。

それを見るに見かねて、その時はまだ、結核や結核の一種のカリエスの人たちを収容していた仙台の国立療養所である仙台西多賀病院が、山田兄弟を収容してみたというのがどうやら初めのようです。

山田富也さんは3人兄弟の末っ子ですが、彼はのちに仙台で「ありのまま舎」という社会福祉法人を立ち上げて、そこで障害者のグループホームを作る活動に関わります。そういう流れもが面白いのですが、そういうことが1960年代、1970年代にぽつぽつ出てきます。

会場に飾られた書道家、石井誠さんの書「花」。筋ジストロフィーで人工呼吸器、車いすを使いながらも精力的に作品を発表していた。201411月、32歳で死去

一方、1964年に、日本筋ジストロフィー協会の前身である「全国進行性筋萎縮症児親の会」という全国組織ができます。数は母親の方が多かったのですが、彼らが、例えば国会に行って、国会議員や大臣に陳情に行き、何とか支援してくださいということを言って回る。それを議員は聴く。

そして別のところでは、お客さんが減って、さてどうしようかなと思っていた施設の側があります。経営者だけでなくそこで働いていた人たちも、お客さんがいなくなると自分たちの仕事がなくなってしまうので困っていました。

ちょうどそういうことが、1960年代の半ばぐらいに同時に起こるわけです。

「なんとかしてくれ」という親たちと、「なんとかしてあげないといけないのかな」とほろっと同情する政治家と、それを後押しするマスメディアと。そして、次のお客さんいないかなと思っていた経営者と、労働者と。

そういう人たちの思惑や利害が一致して、65年ぐらいから筋ジストロフィーの人たちの収容が始まるというのがことの始まりなんですよ。

もちろん筋ジストロフィーの人たちは、ずっと前からいました。在宅で大変だったと思いますけれども、そうやって、国立療養所の収容という出来事が始まっています。

67歳で「治ること」を願って入った】

入所した筋ジストロフィーの人たちは、当初、子供ですからね。

だいたい67歳、小学校に上がるか上がらないかの時に、足がうまく動かなくなって診断してもらう。筋ジストロフィーだということがわかる。

子供たちはなんだかよくわからないまま、「あそこに行ったらそのうち治してもらえるかもしれない」と思う。

これは一つ大きなポイントだったんですよ。

国立療養所を経営、管理していた人たちは医者です。その場は、単に収容するだけではなくて、治療法や病気の原因を解明するためにあるんだという大義名分がありました。

そこに患者が入ってくれば、その人たちを研究することによって、助かるかもしれないし、自分たちは医学的な貢献ができる、という仕掛けの理屈になっています。

ちなみに残念なことですが、筋ジストロフィーというのはなぜ起きて、どうやったら治るのかということはいまだにわかっていません。

しかし、60年代に収容が始まった時には、単に暮らす場所ではなく、そこで原因を解明し、治す方法がわかり、治す場所だと信じられていました。そういうところなんだよと親も思い、親に言われ、67歳の子どもたちも入った。

【病院での生活はどうだったのか?】

そこでの生活はどういうものであったのでしょう。

大きくはつらい生活であったし、それが続いてきた。ずっと同じだったのか。むしろこの頃、もっとつらくなっているという話も聞くことがあります。あとで少し触れます。ただ、僕は実態をよく知っているわけではないので、詳しいことは言えません。

ただ、何人か、療養所での生活を経験した人たちが手記や本で書かれていて、今回の私の本(『不如意の身体病障害とある社会』『病者障害者の戦後生政治史点描』)の中にも引用しました。やっぱりしんどいという感じが分かるくらいには書いたつもりです。

そうやって、60年台半ばから70年代にかけて、「こういうものができたよ」「こういう人は入れるよ」ということで、大きな動きとして人が入る出来事があった。

それは特に、お医者さんたちも、病院もこれから研究して頑張って治療療法を開発してやっていくんだ、というある種の熱気があった。親の会と共に研究所を一緒に作ろうと言っていた時もありました。実現はしなかったんですけれども。

全身の筋肉が衰え、症状の進行と共に人工呼吸器や経管栄養などを使って、生活の全てに介助を必要とする難病、筋ジストロフィー。

結核の旧国立療養所を転用して、筋ジストロフィーの人が暮らすことになった「筋ジストロフィー病棟」がなぜ未だに残り続けているのか。

そして、筋ジス病棟は55年続いてきた結核患者がいなくなった旧国立療養所を残そうと、代わりに筋ジストロフィーの人が入所することが1965年ぐらいから始まるのですが、それから55年という時間が経った。

55年は結構すごい時間だと思うんです。

最初、数年の間はメディアでも取り上げられて、「こんなことが始まった」とか、「これから治療法の研究が進む」ということで話題になったのかもしれません。

しかし、その状態は急速に当たり前のことになっていきます。

筋ジストロフィーと診断されたら、各地の国立療養所に入っていく。そういうことなんだというのが、本人、親、保健所の人たちの中でルートができて、自然とそう流れていく仕掛けができる。

世間の大部分からは見えない出来事として、そのあとの時間が静かに流れていく。そういう感じでした。

そこから出て、地域で生活しようとする試みもあった

では、その間に何事もなかったのかというとそうでもないわけです。

この後、『こんな夜更けにバナナかよ』を書いた渡辺一史さんが、鹿野靖明さんという北海道で暮らした筋ジストロフィーの方の話をされると思います。

自分の身の回りの世話をするボランティアを募って、自立生活を実現させた鹿野靖明さん。鹿野さんとボランティアの交流を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』は映画化もされて話題になった

鹿野さんのように、何人かの人たちが、国立療養所でないところで暮らそうという試みをしたことが記録に残っています。

鹿野さんは1959年の生まれで、僕より1つ年上なだけなんですね。

57年〜59年頃に生まれた人たちは、6566年ごろに小学校に上がるぐらいの年齢で、ちょうど療養所に入院させられる時期でした。国立療養所体制が確立するころと発症が重なり、親に連れられて入っていく。そういう時期の人たちがいるわけです。

ただ、その時は、こういう動きをこれから始めて、療養所は療養所で頑張ろう、スタッフはスタッフで頑張ろうという前向きな空気があった。

また、60年代の終わり頃から70年代の初め頃、いろんな社会運動が盛んになりました。福祉や医療に関わって世の中をなんとか良くしなければいけないと考える大学生たちも施設にやってきて活動したという記録も残っています。

始まったばかりの時に入り、社会もいろんな意味で騒々しく、いろんな思いを持っている人がまだいた70年代半ばには、この状況をなんとかできるんじゃないか、なんとかしたいという人もポツポツ出てきました。

施設の出来立ての時期は、それなりに療養所の自治会も機能していて、自治会同士のコミュニケーションが取れていた時期もあったようです。

そんな中で、療養所の待遇を改善しようとか、ゆくゆくはそこから出て暮らそうという動きもあった。

僕はたまたま1980年代後半に、文献を調べたり、インタビュー調査をしたりしていて、こうした試みをした人たちの書いたものを見たので、こういう人たちがいるんだなと知りました。

個々人の試みが大きなうねりにはならなかった

例えば、山田富也さんという方です。

この人は仙台で、「ありのまま舎」という組織を作って、ケア付き住宅を作りました。これはものすごい努力です。

ありのまま舎からは何十冊も本が出ています。いろんな出版活動をし、募金活動をし、皇室とも仲良くなって、いろんな人と仲良くなってつながって、70年代から80年代にかけてそういう場を作ろうとした。

そういう動きが一つあり、それが今も続いているわけです。

ただ、その一つの動きがそれ以上の何かにつながったかというと、これはちょっときつい言い方になるかもしれませんが、なかなか難しい。

これはケア付き住宅という運動全般に言えることですが、一つ、二つできて終わってしまう。例えば、東京には八王子自立ホームというのができます。東京青い芝の会という組織が作ったのですけれども、1つできたまま50年経ってしまっているわけです。

みんな頑張っているのはわかっているのですが、頑張っている力がどう使われてきたのか、どこで途切れちゃったのか、それと同じ力だったなら他にやりようがあったのではないか。過去の先人たちの試みを見ると考えさせられます。

山田兄弟も上二人は割合早く亡くなりますが、末っ子の富也さんは長生きされて、ずいぶんたくさんのものを書いて残されました。

20代で亡くなっても残したものを受け継ぐ

僕の本には、他に福嶋あき江さん高野岳志さんという人も登場します。

二人とも千葉の国立療養所に暮らし、高校を出る20歳前後は、1977年頃でした。

その少し後の1981年は「国際障害者年」というのがあった年でもある。そんなこともあって、「自立生活運動」という言葉がいくらか広まりもしました。そうしたことにも影響されて、高野さん、福嶋さんはほぼ同時期に、千葉市とさいたま市で自立生活を始めました。

そして、わずかですけれども、彼、彼女らが残した文章が残っています。福嶋さんの場合は亡くなった後ですけれども、本が1冊出ています。

そのおかげで、80年代の初頭にそういう動きがあったということも調べれば分かる。

単純に、彼らは寿命の制約はありました。高野さんは27歳で、福嶋さんは29歳で亡くなりました。

特にデュシェンヌ型筋ジストロフィーの寿命は、10代半ばぐらいか、20歳超えたらまあいい方という時期がずいぶん長く続いたわけです。

60年代の国立療養所に残されている文集に詩が残っているのですが、それはだいたい中学校2年とか3年ぐらいの年齢の人たちが書いています。二十歳を超えるものは少ないです。

そういう状況が70年代に続き、今に至るまで根本的な治療法はわかっていません。でも、特に呼吸器の使用によって寿命は延びていった。70年代から80年代にかけて20代だった寿命は、今では40代、50代も珍しいことではなくなっています。

ただ、国立病院療養所が始まった時に小学生で入って、その間10年ぐらいいて、社会の動きも捉え、出ようと思い、そこから出たごく少数の人たちは出て2年や3年で、20代半ばで亡くなってしまう。その死でその試みは終わってしまう。それがぽつぽつあったのが80年代半ばぐらいです。

ただその方たちは亡くなっても、そういう思いがあったということ、じゃあどうしようかという動きがあったということは記憶にとどめていたいと思います。

遺志を受け継ぐ人もあちこちにいる

例えば、一昨年、約30年ぶりに聞き取り調査を再開して、福嶋さんのボランティアとして入った、当時埼玉大学の大学生だった佐藤一成さんという人にインタビューをしました。

僕より少し若いぐらいの男性です。彼は、福嶋さんが亡くなってから30年、さいたま市にある「虹の会」という組織の事務局長的な役割を果たしてきて、今に至ります。ここの代表は、筋ジストロフィーの人です。

そういう形でポツポツと、当事者が亡くなっても続いている出来事もまたあるわけです。

20代で亡くなった高野さんについても本人が亡くなられた後、その遺志を継ぐように、彼に関わった人たちが千葉市での活動を続けています。

そうした動きもありながら、ただ全体としてどうだったかというと、大きな長い沈黙がその後続きます。

そうやって忘れてしまって、気づかないうちに30年ぐらいの月日が経ってしまったというのが現在なのだろうと思います。

それは、なぜか?

一つには、その体制を作って維持してきた人たちと、この40年、50年の間の障害者運動、特に介護保障をめぐって頑張ってきた運動が、長い間接点を持ち得ていなかったということが大きなポイントだろうと思います。

それにもいろんな曰く因縁があります。

「善意の集合体」が作り上げたものを今、改めて問う

この間、ドラマ『白い巨塔』が再放送されましたが、ああいうのはわかりやすい。悪い奴が出てきて、事実を隠蔽する。そういうことも世の中には実際あるわけです。

でも、筋ジストロフィー病棟という出来事を作った動きは、ある意味、「善意の集合体」みたいなものなわけです。

親は親で子どものことを思い、医師は医師で患者のことを思い、政治家は政治家で涙する親にホロリと思いということが合わさってできてきたものです。そこには、悪人はいません。

でも、そうではない暮らしもあるのではないか?と問い直す動きが同じ時期に存在するのに、お医者さんと親と政治が絡んだ、ある種のサークルの仲間たちの間ではその情報は全く入っていなかった。

そのサークルではみんな仲が良くて、親は医師たちを褒め上げるし、医師たちは親たちに頑張っているねと励ます。そういうサークルの中ではそれと違う発想、違う生活もあるかもしれないという流れをほぼ自覚もされない。

全く知らないものとして、脇に寄せられていて、自分たちの善意が寄り集まった空間が、そのままで3040年続いてきたと言えるのでしょう。

そうして温かく作られてきた組織は、お医者さんたちも施設を運営する人たちも看護師も含めて結構熱心なんです。それがやがて当たり前になり、社会的には誰も知らない。良し悪しは別として互いに頑張ろうという熱気で作られてきた仕組みも抜けていって、あとはいったん作られた仕組みが毎日繰り返されている。

長生きできるようになったということは、年をとると重度化し、重い状態が同じ人の中でより長く続くわけですから、同じ数のスタッフを置いておくだけでは、むしろ仕事は大変になっていくわけです。

大変になっていく中でスタッフの数が変わらなければ、入所者の生活もしんどくなっていく。そういう意味で、変わらないというよりは少しずつ、「仕方ないんだよね。予算がこうなんで、仕組みもこうなんで」といっているうちに、生活自体が少しずつ劣化していく。

そして、その劣化は気づかれない。その頃には、療養所間のコミュニケーションもなくなり、他が自分たちのところよりもましなのか、そうでないのかということもわからない状態になりました。

わからないままだんだん生活がしんどくなっていき、だけどそれを訴えるルートも存在しない。そのようにして続いてきたんだろうと思います。

忘却と無知が維持していた空間】

多くの現実はそういう具合にでき、そこには悪い人はいないけれど、同じことの繰り返しと忘却と、そしてある種の無知によって、その現実は維持されてきました。

自分たちの仕事以外に別の仕事があり、別の生活をするための手段があるという発想や現実に全く関心のない人たちだけによって作られてきた空間になってきた。

僕はこの出来事を何で知ったのかよく覚えていません。ただ、『国立療養所史』という4巻ものを入手して読み込みました。厚生省がまとめたもので全部で2000ページ弱、市販されたものではありません。

国立療養所の所長さんが自分の施設の昔話を嬉々として語っている。「ああ、こういう風に人々はこのように自分のやっていることを肯定するんだな」と思いました。その自己肯定感は分かるとともに、気持ち悪くもあります。

それと同時に、現在、国立療養所とかつて言われた施設の中で暮らさなくてもいい人たちがたくさんいることも当然わかってきますから、そこはなんとかしようと思いながら、雑誌連載を続け、本を作りました。

ここ数年の間に、障害者差別解消法などがぽつぽつ出てきて、身の回りにある差別事例を出し合おうという動きがありましたね。それはそれで大変結構なことなんですが、1000人単位の人たちがいつの間にか、ほぼ忘れられたままで40年とか、30年とか、人によっては50年暮らしているわけじゃないですか。

その問題は、わざわざ探しに行かなくてもそこに厳然とあるわけですから、そこをなんとかしなければならないんじゃないですかということを、DPI(障害者インターナショナル)日本会議の全国集会があった時などにちょっとアジったりしました。

探して見つけるのではなくて、そこらにゴロゴロあるじゃないかと。そこはちょっと手をつけなくていけないんじゃないのということは思っていました。

ぬるく維持されてきた仕組みを壊す

先ほど触れた介護保障の要求、障害者自立の運動はちゃんとあり続けてきたわけです。40年も50年も、気合の入ったものがあってきたのです。

でも、でも、施設を守ってきた側はそれを何も知らないのです。同じ日本という国なのに全然違う空間が二つに割れている。互いに互いを知らないみたいな状態です。

その間の壁がどうすれば壊れるか。

実は、そんなに大したことではないんですよ。ネットが普及していく。流石にネットはだめという国立療養所はないわけです。さきほど言った人たちが完全に情報から遮断されていたかというとそうでもないんですよ。

例えばこの間亡くなった古込和宏さんという、金沢の医王病院にいた人は、日本筋ジストロフィー協会の機関紙を親が取っていて、自分も読んでいたそうです。筋ジストロフィー仲間のメーリングリストにも入っていた。

生前の古込和宏さん。8歳で入所して以来、37年間病院で暮らしてきた。201710月に退院を実現して一人暮らしを始めたが、1年半後の20194月、亡くなった

だけどそれは、在宅で最初から親が面倒みることになっていて、親がいてなんとかなっている人たちの集まりであったり機関紙であったりで、古込さんの場合、親はあてにならなかった。「だけど、ここにいるのは嫌だ」という古込さんには役立たないものでした。

それで困ったなと悶々としている間に、家族がいなくても、他人による介護で介護保障制度を使ってやっていけるという話からことは始まるんですよね。

この仕組みは、ぽっとできたわけじゃなくて、30年、40年、50年かけて、我々の国の障害者運動が作ってきた。そして、古込さんは最初は偶然、やっていけるという話を、Facebookで友達になったさくら会の川口有美子さんから聞いたところから話は始まるんですよ。

そこから、東京の介護保障協議会や介護派遣のプロたちの集まりにつながって、具体的に、病院を出て地域で暮らすところまで支援しようとなった。

さらに、これまで地域移行をいろんな形で支援してきた日本自立生活センター(JCILメインストリーム協会の人たちが、ネット上でこういうアイディアがあるとかこういう制度があると伝えるだけではなくて、一人一人が金沢にいって彼に会って、あれだったらこうするこれだったらこうすると支えました。

実際に一時的に外泊させることをやりながら進めていきました。

もう壊れないのかなと思っていた仕組みが壊れた。ぬるく保存されていた、でも堅固な硬い構造を壊し、穴を開けることがここ数年の間に起こってきた。

大まかな流れを私はそういうふうに見ています。

各自の力や技を組み合わせて強い力にする

周囲から批判されることもなく、医者と親が互いに褒め合い、ぬるい感じでなんとなく続いてきたものに対して、別の生活もあるし、病院での生活ももっとマシにできると訴えることには当然理があります。理があるだけではなくて、現実的な解決方法や手段というものもあります。

この頃僕はよく言うのですけれども、相手はぬるいけれどもそれなりに歴史がある。その中で一人二人の、一つ一つのやり方だけで変わっていくというものではないのだろうなと思います。

「各自がそれぞれの力や技を組み合わせることで仕組みは変えていける」と語る立岩真也さん

私のような研究者は、誰が読むんだろうと思われるような昔話をいっぱい記録する。人に会って、ちゃんと目を見て話すことができる人は、そうやって当事者の気持ちを伝える。お金の勘定ができる人はする。喧嘩ができる人はちゃんと喧嘩をする。

そうやって各自各様に自分の力や技を組みあわせることで、強い力になる。

戦後75年という長い時間で作られたシステムを壊すことは易しいわけではない。

だけれども、どうしようもないほど堅固でもない。敵は敵でぬるい。どこか見くびるぐらいでもいい。もっと賢いやり方を教えてあげるのでもいい。そういういろんな手練手管を使って、考えていく、変えていくということは今からでもできることだろうし、今ここでできていることでもあります。

例えば今日のような集まりで出たいろんな人の発言や、公の場でないところでも話して、書いたものをまとめて、公開可能なものは公開していく。そうでないとやっぱり死んだ後に何も残らない。

27歳で死んだ人だって、27歳までに書いたものがあるからいなかったことにはならない。80年代にはこういう人がいてここまでやったけれども亡くなっちゃったということを知ることができる。

知ったことによって、じゃあその次を自分がやろうということにもなるわけです。

福嶋さんはちょっと悲しいエピソードがあって、彼女は呼吸困難になった時の機器を購入して自分のアパートに置いていたそうです。ただ、その当時、入ってくるのは大学生のボランティアだった。

そういう機械があるとボランティアが恐がるかもしれないということでしまってしまい、いざ呼吸困難になった時にそれを使えなかったらしいです。スーパーに買い物に行って、帰ってしばらくして呼吸困難になってそのまま亡くなった。

彼女はそれで意識がなくなって亡くなってしまいましたから、彼女の書いたものには残っていない。だけど彼女の周りにいた人々がそれを書いて残していたりする。そういうところからいろんなことがわかったり、悔しかったり、こんなことは繰り返さないようにしようという思いが生まれるわけです。

いろんな悔しいことやうまく行ったこととも含めて、僕は記録して記憶として残して、それをみなさんが読んだり見たりする。そのうち動画も載せて、見てもらう。

そういうことだったら僕ら研究者学者のできることだと思うので、いろんな動きがあることについて、やれることをやっていきたいなと思います。


# by cil_morioka | 2019-06-15 10:10 | Comments(0)

第14回ゆめ風であいましょう
近くて遠きもの「自由」

7月6日(土)午後1時開場/1時半開演 
会場/ 東京都板橋区立グリーンホール2階
(板橋区栄町36-1)
東武東上線「大山」駅北口より5分
都営三田線「板橋区役所前」駅A3出口より5分

入場料/1500円 ペア割/2人で2000円
高校生以下/500円 /介護者1人無料


☆恒例のゆめ風であいましょう あと3週間に迫ってきました。
ぜひおこしください。
チラシはこちら→https://yumekazek.com/blog/?p=2951

タイトル=「近くて遠いもの 自由」

1部では、六文銭 ライブ「自由」 
2部では、   
 「自由について」   
詩人のアーサービナードさん、小室等さん、牧口一二によるトーク です。

ぜひご参加ください。ご友人お知り合いにもぜひお知らせくださいませ。


【お申込み・お問い合わせ】は・・
「ゆめ風であいましょう参加希望」とご明記のうえ、住所、氏名、電話番号、参加人数を、下記のいずれかの方法でお知らせください。確認後、参加票をお送りします。定員(200人)に達し次第しめきります(入場料は当日精算)。
ウェブサイト:「カタログハウスの学校」で検索

↓こちらから申し込めます。

https://www.cataloghouse.co.jp/study/

電話:0120-545-450(平日の午前10時30分~午後5時)
FAX:03-5365-2298(24時間受付)
はがき:〒151-8674「カタログハウスの学校」


# by cil_morioka | 2019-06-13 11:15 | Comments(0)

510日~512日に、CIL青森から和田英人さんにリーダーでおいでいただき、盛岡駅前の会場でピアカウンセリング集中講座を行いました。ピア・カウンセリングのピアは、同じ背景を持つ仲間という意味です。ピア・カウンセリングは、同じ背景・経験を持つ同士が、平等な立場で話を聴きあい、気持ちを楽にしたり、自信を取り戻すためのものです。障害を負ったことで精神的な傷を受けた当事者が集まり、サポートし合いながら、いろいろな人達の話を聞くことでお互いに元気を取り戻し、自分は一人ではないと再確認できる場となります。受講されたみなさんが、それぞれの日常を踏まえながら、次に進もうとする意思を感じとることができてとても良い講座となりました。

リーダーのわかりやすい説明により予定通りプログラムを進めることができ、ハイレベルな質疑応答もありました。

一日目より二日目。二日目より三日目と、受講者同士がだんだんと近くなっていったように思いました。

受講されたみなさんからは、良い経験ばかりで勉強になりました。貴重な経験をできたので非常にありがたく思っております。と感想を頂きました。

二日目の交流会では、みな真剣に伝言ゲームで楽しく過ごせました。

この集中講座をきっかけにして、サポートグループやピアカウンセリングが広がって繋がっていくことを願います。

3日間の講座を支えて下さった介助者の皆さん、事務局スタッフの皆さん、ありがとうございました。

●1日目のスタートを13:00からにした方が良いです。(12:30受付にするとか)または、終了を遅くする等がいいです。

●1日目のリレーションの後に、「ピアカウンセリングとは」のコマに入っても良いです。スタートから2時間は続けても良いです。

●昨年の1日目の部屋がミーティングルームで狭くてセッションが大変でしたが、今年は調理室を借りることができて、広くてセッションし易かったです。

●できれば3日間同じ部屋を借りれるのが理想です。

●2日目に、場所を借りている時間中に一時的に人が抜けても大丈夫かどうか聞きに行ったら、確保している時間なので大丈夫です。と言われたので確認して良かったです。

●和やかな雰囲気で、進められたので、心地よかったです。

●とてもいい講座ができて嬉しかったです。

●プログラムを全て模造紙に書くことができて、良かったです。

●交流会で初めてゲームを行ったので、次回行う時はもう少し簡単な内容にしたいです。

●伝言ゲームの伝言を最初は短くして、慣れたら長くすれば良かったです。

●お弁当がおいしかったですが、量が足りない人がいたようです。

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# by cil_morioka | 2019-05-31 10:19 | ピアカウンセリング | Comments(0)

セミナーのお知らせです。
「筋ジスの自立生活とは?〜筋ジス病棟から自立生活へ〜」
2019年6月1日(土)午前11時〜午後4時
場所 西宮商工会議所2階大会議室
当日はインターネットで中継があります。

このURLにアクセスすれば見ることができます。

https://www.youtube.com/channel/UC1k9T1vBePZYX4np4riHfCw/

これは、予定がある方、遠方で西宮に来ることができない方などもそうですが、ぜひ病院に入院中でなかなか外出することができない方に見ていただきたいと考えています。お知り合いで心当たりある方おられれば、ぜひこのURLをお知らせいただけたらなと思います

また、インターネットを通じて入院中の方とも直接どんどんつながって、病院の中の生の声を聞きたいとも思っています。そちらの方も心当たりあればぜひご紹介いただけたらと思います。【主催者の声】

よろしくお願いします。


# by cil_morioka | 2019-05-23 09:52 | 運動 | Comments(0)