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重度障害者の地域生活実現のために


by cil_morioka
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『車椅子の歌』へ込めた思い

 『車椅子の歌』を作詞した菅原俊男さんより、この詩に込められた熱い思いを寄せていただきましたので、全文を紹介させていただきます。

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 41年前左官業工事で転落し、大船渡県病から花巻の労災病院に転院した。当時全身麻痺で寝たきりだったし、先生が労災の方が専門医もいるし仲間もいるからでした。
ベッドに少し起こされて見えたのは、赤坂三郎さんという人が社会復帰すると毎日リハビリしてるのが窓に見えました。
看護婦さんかに、社会復帰??と聞かされた時、私の脳裏に北海道で刑務所の工事をした時、ここで社会復帰のために職業訓練すると聞いていたので、変に思ったものである。
2ヶ月ほど後に赤坂さんが退院して行く時に、『俊男、生きるために生きてろよ。必ず何かが見えてくるから』って言いました。
私は入院してから、色んな人たち(車椅子に乗った人)が訪ねてきては、ガンバレよ。必ずよくなるからって、励ましてくれました。その時、必ず聞いたことは、怪我して何年になるの??でした。

みんなニコニコしながら、俺は5年だ、俺は8年だと言うのを聞いて、5年も8年も入院してまだ車椅子なのかって思うと、慰められるより、突き落とされるような気がしたものでした。

そんな中での入院生活が始まり、床擦れも8ヶ所も作りながらも、毎日体位交換とリハビリの繰り返しです。
とにかくリハビリは一日いっぱいして、俊男はノイローゼになったと言われてたそうです。
体に知覚が出来てから床擦れもたちまち治り始め、6年ぐらいで治りました。
車椅子への移乗も工夫と仕掛けでなんとか出来るようになり、何とかして社会へ出たい。その思いが募るばかりの毎日でした。
無年金で金はないし、親兄弟の理解もないし、特に飛びぬけた能力もないし、残存機能もないという。
ないないづくしの自分なのに、俺はこの病院死ぬんだろうかと、手足の不自由な仲間と会えばそんな話題ばかりでした。

入院して7年目ぐらいに、盛岡の青山で赤坂さんたちが働いてる作業所に作業体験に行くことになりました。
現在滝沢に住んでいる山本正弘夫妻(妻は労災の看護婦だった)の送り迎えで労災から外泊し、山本宅に泊まりながら、作業体験しましたが、能率は悪いが、何とかできるのは一つの作業のみでした。

そこで働くなら市営住宅に入り、仕事は仲間が運んでくれるとまで言われたが、長い人生、好意に甘え続けていいのかと悩んで生まれ故郷の大船渡に帰って何か探す決意をし、家族の反対を押し切って退院し、大船渡県病に入院しながら、家族の理解と支援を仰ぎ続けてました。
1年半ほど後やっと200万円の都合を貰い、病院の近くに古い家を借り唯一の才能の碁会所のための改造を始めたある日の夕方、病室のテレビに親父の名前と、我が家の船の名前が流れました。
何??と聞くと、日本海で船が衝突され沈没したとのことです。
私は本当に親不孝なんだね。その時脳裏には、親兄弟の安否より自分の夢はどうなるでした。結局、案の定親父からボロ船でロクな保険金も下りない。借金しかのこらない夢とやらは諦めろといわれ諦めざる得ませんでした。
それから1年半ほど後に吉浜荘という施設に入る決心しました。
その決心の後、お袋が泣きながら俺の荷物を段ボール数個に積めて押入れに入れてました。
その時の悔しさが
迷いみせたら どの道も
辛いものだと 今さら知った
きっと咲かせる 幸せ花で
おふくろさんの 乱れ髪
俺のこの手で 飾ってやろう
と出来もしないことをノートに書いてました。

俺の人生はここで死ぬんだ。と本当にそう思って入りました。
過去自分の人生の中で一番になったというのは記憶にないが
昭和55年4月7日吉浜荘開所の日一番目に入所したのが、自分の誇りになりました。
思え出せば、数ヶ月前に家にいたときに、俺には何も誇れるものってないなぁと思ったことがありまして何か作ろう。と考えて考えたのが、ないないづくしの俺にあるのは暇だけだ。
一万まで数えてみよう。と思い、朝9時から布団をかぶり。お袋に起こすな。声も掛けるなと言って数え始めました。
5600??もしかしたら、今4000代から5000代に飛んだかも?と思えば数えなおしとなり、自分が納得できたのは午後3時から6時までの3時間かかって一万達成したのがあります。誰も証明する人がいないが神に誓って本当だす。

この頃に、悔しくて悔しくて何クソーー詞でも書こうと決心したのです。
施設に入ってもクダラナイ詞は書き続けてました。
いろんな仲間たちと力を合わせて、施設の理解もあり、売店経営など他の施設ではないことをさせてもらいました。売上金で入所者は勿論職員全員のTシャツなんか作ったり、運動会の商品や、相撲の星取りの賞品代などになりました。
私の人生を変えたのは、施設の棚に眠っていたワープロというものでした。
ワープロなんて名前も知らなかったが、誰も使わないから使っていいよの職員の理解から、説明書もない文字表示が6桁のワープロと格闘しました。あーーはどこだ。かーーはどこだ。から、何とか表らしいものが作れるようになると職員の個人のものを作成依頼されて喜ばれたのが、自分の障害者生活の何かで人に喜ばれたのが初めてと思いました。
その喜びがもっと機能のいいワープロをと買い換えて、出入りしていた印刷屋さんからも依頼されるようになり
仕事の内容によって使い分けするようにと3台も買いました。
労災病院の看護婦さん付き添いさん。
吉浜荘の職員一同さんの理解と応援に支えられ俺の歌『車椅子の歌』ができ自分の作曲で、いつでも私の頭の中で歌われてました。
病院10年の後、自宅約2年、施設12年を経て本当に自分の社会復帰の夢が実現することになりました。
一番目は赤坂さんのあの言葉
二番目は予期せぬ障害者になって苦労かけたおふくろへの思い
三番目は病院や施設の職員や社会へ出てからの多くの人たちへの思いを書きました。

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菅原さん、ありがとうございました。
ひとつひとつの言葉が、胸に沁みてきます。
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by cil_morioka | 2010-01-03 16:30 | CILもりおか会員のページ | Comments(0)